破れたレシートをAIが復元する
一枚のレシートを、わざと手で破る。断片をスマートフォンで撮影し、AIに「元の姿を復元せよ」と指示する。数秒後、画面には焼き鳥10個1,080円、レジ袋2円という明細が、破れる前とほぼ同じ姿で並んでいる。
ただし、あらかじめ断っておきたい。これは原本の復元ではなく、整合する候補の推定である。この一点に、データインテグリティ実務の論点が凝縮されている。
これは、セミナーの場で筆者が即興で行うデモである。手元のレシートを無造作に破り、断片を撮影してClaudeに読み込ませ、「元の内容を復元してほしい」と指示する。たったこれだけで、AIは欠けた文字と数字を埋め、明細と合計を整合させた一枚の表を出力する。
AIは何をしたのか
AIは失われたインクを取り戻したわけではない。行ったのは、読み取れた情報と常識から導かれる制約条件を使った推論である。合計欄に1,082円と印字されていれば、明細の合計はその値に一致しなければならない。
単価と個数から1,080円が確定すれば、残る2円は「レジ袋代」として日本の小売の実情に照らして自然な候補となる。つまりAIは、欠損部分にもっとも整合する候補を当てはめたのである。ここに決定的な限界がある。
整合するからといって、それが原本に書かれていた内容であるとは限らない。破れた部分に「クーポン値引 −50円」が隠れていたなら、合計との差額が手がかりとなって誤りに気づける。しかし合計欄そのものが破れていたら、検算の足場がない。AI出力の信頼性を評価する上では、検証に使える手がかりがどの程度残っているかが重要な要素となるのである。

Original(原本性)PIC/S PI 041-1は原本記録を「情報が最初に取得されたもの(first-capture of information)」と定義する。AIが後から生成した推定値は、定義上、原本ではない。True copy(真正なコピー)原本と同一の内容・意味・属性を保持し、その同一性が署名またはバリデートされたプロセスで検証されたコピー。
MHRAは、コピーの完全性を検証・記録する文書化された仕組みがあれば、スキャンによるtrue copyを原本の代わりに保管しうるとしている。Human-in-the-loop(HITL)AIの出力を人が確認・承認する工程を組み込む設計思想。
なぜこの話がGxPの現場に刺さるのか
「破れた記録」は、査察の現場で繰り返し登場するテーマである。しかもその多くは事故ではなく人為によるものであった。2019年5月のCenturion Laboratories宛のFDA Warning Letterでは、ごみ袋から回収された安定性試験データの断片に規格外(OOS)の結果が含まれていた一方、公式記録には規格内の値が記載されていたことが記されている。
2025年12月のUnipack宛のレターでは、試験の秤量値が粘着メモ(adhesive note)に記録されていたことが指摘された。FDAのデータインテグリティQ&A(2018年12月)は、この問題に正面から答えている。”It is not acceptable to record data on pieces of paper that will be discarded after the data are transcribed to a permanent laboratory notebook.”
(恒久的なラボノートへ転記した後に廃棄される紙片にデータを記録することは、許容されない。)
これは紙媒体そのものの否定ではなく、転記後に原記録が残らない運用を認めないという趣旨である。これらのFDA文書に共通するのは「最初に取得された記録そのもの」を改変せずに保持することを重視している点である。ここに、レシート復元デモの含意が重なる。
破れた記録をAIが見事に再構成できるという事実は、裏を返せば、欠けた記録を「もっともらしく埋める」ことが格段に容易になったことを意味する。整合性が取れているという理由だけで記録を信用する監査のやり方は、もはや成立しない。
規制動向 ーー 当局はAIをどう線引きしているか
2025年7月7日、欧州委員会(DG SANTE)は、EudraLex Volume 4のChapter 4(文書化)およびAnnex 11(コンピュータ化システム)の改訂ドラフトと、新設のAnnex 22「Artificial Intelligence」についてパブリックコンサルテーションを開始した(締切2025年10月7日)。3文書は、EMA GMDP査察官作業グループがPIC/Sと協力して作成したものである。Annex 22ドラフトの適用範囲は、患者安全・製品品質・データインテグリティに直接影響する重要用途でAIモデルを使用する場合とされ、対象は、同一入力に同一出力を返す決定論的(deterministic)モデルであり、かつ使用中に学習・適応しない静的(static)なモデルに限られている。
そして次のように明記されている。”the document does not apply to Generative AI and Large Language Models (LLM), and such models should not be used in critical GMP applications.”
(本文書は生成AIおよび大規模言語モデルには適用されず、これらのモデルは重要なGMP用途に使用すべきではない。)非重要用途で生成AIを用いる場合は、資格と訓練を有する人員が出力の妥当性に責任を負うこと、すなわちhuman-in-the-loopが求められる。
あわせて改訂Chapter 4ドラフトは、AIその他の自動的手段によって作成・処理された文書・記録・生データの完全性に関する責任は規制対象となる利用者にあると明記した。この懸念は理論上のものではない。2026年6月29日、MHRA Inspectorateのブログは、AIで起案されたGxP査察回答に存在しないMHRAガイダンスへの参照が確認され、ある一件では実体的な誤りにより当局側のレビュー所要時間が約4時間から20時間超に膨らんだと公表した。同ブログは「起案ツールが変わったからといって、これらの責任が変わることはない」と結んでいる。

独自の視点 ーー 任せられるものは任せよ。ただし「任せる」と「委ねる」は違う
それでもなお、このデモの本質は前向きなものである。人が時間をかければできることは、AIが一瞬で済ませる。
これを脅威ではなく設計指針として受け取りたい。規制対応の現場には、人が時間をかければできる作業が山積している。数百ページのバッチ記録から逸脱の痕跡を拾い出す。
英文ガイダンスの改訂前後の差分を洗い出す。過去の是正処置報告書を横断して類似事象を探す。いずれも原理的には人ができるが、数日を要し、疲労とともに精度が落ちていく。
ここはAIに任せるべき領域である。一方で、任せてはならないものがある。「原本であること」と「判断の責任」である。
原本性は後から生成できる性質ではない。最初に取得された記録が、その瞬間に、改変されずに保存されたという事実だけが原本性を成立させる。だからこそ、電子的に取得できるものは最初から電子的に取得する設計へ移すことが本筋となる。
AIによる復元は、設計の失敗を事後に取り繕う手段であってはならない。そして判断の責任は、Chapter 4改訂ドラフトが明言したとおり利用者に残る。AIに任せるとは、作業を移すことであって、責任を移すことではない。実務に落とすなら三点である。
- 第一に、AIに任せる作業をcontext of useとして明文化し、AI出力への依存度と誤りの帰結でリスクを評価する。
- 第二に、AIの出力には必ず検証の足場を用意する。合計値、独立した第二の記録、原本との突き合わせ、第三者レビューのいずれかが常に必要である。
- 第三に、AIの出力が推定値であることを記録上に明示する。
「復元結果」というラベルを外して原本や正式記録として扱うことは、データインテグリティ違反につながりうる重大なリスクである。

実務上の注意
AIによる記録の復元・補完は、欠損部分に「もっとも整合する候補」を生成する行為であり、原本記録(original record)にはあたらない。記録が破損・退色する前に、PIC/S PI 041-1およびMHRAガイダンスに従い、バリデートされたプロセスでtrue copyを作成しておくことが重要である。すでに判読不能となった部分をAIで推定しても、true copyの代替にはならない。なお、社外のクラウド型AIサービスに記録画像を入力する場合は、送信先、保存期間、二次利用の可否、秘密保持義務を事前に確認しておきたい。
破れたレシートが数秒で姿を取り戻す光景は、痛快である。同時にそれは、何を機械に渡し、何を手元に残すのかを選び直す機会でもある。作業は渡してよい。
判断と原本は渡せない。この線を自分の言葉で引けているかどうかが、これからの規制対応担当者の力量を分けるだろう。
FDA ー Data Integrity and Compliance With Drug CGMP: Questions and Answers(2018年12月)
MHRA ー ‘GXP’ Data Integrity Guidance and Definitions, Revision 1(2018年3月)
MHRA Inspectorate ー Use of AI for GXP inspection responses(2026年6月29日)
FDA Warning Letter ー Centurion Laboratories Private Limited(2019年5月4日)
FDA Warning Letter ー Unipack LLC(2025年12月19日)
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