『ジャングル』が変えた食卓
1906年純正食品医薬品法とFDAの誕生
はじめにーー規制がなかった時代のアメリカ
今日のFDAの原点は、いまから120年前、1906年に制定された一本の法律にさかのぼる。それ以前の米国には、食品や医薬品を包括的に規制する連邦法が存在しなかった。何が食品に混ぜられていても、薬に何が入っていても、国はそれを取り締まる術をほとんど持たなかったのである。
19世紀後半から20世紀初頭のアメリカで何が起きていたのか。そこから話を始めよう。
産業化がもたらした光と影
19世紀後半の米国は、南北戦争後の急速な産業化と都市化の時代であった。鉄道網の発達は食品や医薬品の大量生産・広域流通を可能にした一方で、その品質は劣悪を極めた。都市の消費者は、生産者の顔が見えない食品を口にするようになり、防腐と増量のためにホルムアルデヒドやホウ酸が混ぜられた牛乳、着色料でごまかされた腐肉が平然と流通した。
医薬品はさらにひどかった。当時の市場を席巻していたのは「特許薬(Patent Medicine)」と呼ばれる売薬である。中身は秘密、効能は万能とうたい、実際にはアルコールやアヘン、コカインを含むものが少なくなかった。
乳児をおとなしくさせる「鎮静シロップ」にモルヒネが入っていた時代である。成分表示の義務すらないのだから、消費者には知りようがなかった。公衆衛生上の危機は静かに深まっていた。
一冊の小説と一人の化学者
転機は二つの力によってもたらされた。一つは文学の力である。1906年、作家アプトン・シンクレアが小説『ジャングル』を発表した。
シカゴの食肉加工工場で働く移民労働者を描いたこの作品は、病死した豚が加工に回され、ネズミごと原料が製品にされるといった凄惨な不衛生の実態を白日の下にさらした。シンクレアの狙いは労働者の悲惨さを訴えることにあったが、読者が震え上がったのは食卓の安全であった。「私は大衆の心を狙ったが、当たったのは胃袋だった」という彼の言葉は有名である。
世論は沸騰し、セオドア・ルーズベルト大統領を動かした。もう一つは科学の力である。農務省化学局の主任化学者ハーヴェイ・ワイリーは、20年以上にわたり食品添加物の危険性を訴え続けた執念の人であった。
彼が1902年に始めた実験は今日では考えられない大胆なものである。健康な若い志願者を集め、ホウ酸やホルムアルデヒドといった当時一般的だった防腐剤を食事とともに実際に摂取させ、体調の変化を記録した。「毒物試験班(Poison Squad)」と呼ばれたこの実験は新聞の格好の話題となり「われわれの食卓には毒が盛られている」という認識を全米に広めた。
ワイリーは科学者であると同時に、世論を動かす術を知る稀代のキャンペーナーでもあったのである。さらに、雑誌ジャーナリズムによる特許薬の告発キャンペーンがこれに重なった。1905年から連載された「アメリカの大詐欺(The Great American Fraud)」は、特許薬の成分を化学分析にかけ、万能薬の正体がアルコールと麻薬であることを実名で暴いた。悲劇と告発が世論を動かし、世論が議会を動かすーーFDAの歴史を貫くパターンは、この最初の立法からすでに始まっている。
1906年純正食品医薬品法ーー何ができて、何ができなかったか
こうして1906年6月30日、純正食品医薬品法(Pure Food and Drug Act)が成立した。同じ日に食肉検査法も成立している。この法律は、州際取引における不良(adulterated)または不当表示(misbranded)の食品・医薬品の流通を禁じ、執行はワイリー率いる農務省化学局に委ねられた。
この化学局こそFDAの前身であり、後の1930年に現在の名称であるFDA(Food and Drug Administration)となる。ただし、この法律ができたことと、医薬品が安全になったことは別である。1906年法が求めたのは、主として表示の正直さであった。
アルコールやモルヒネなど特定成分の含有表示は義務づけられたが、販売前に安全性を証明する仕組みはなく、効能の虚偽広告への対処も不十分だった。誇大な効能をうたう特許薬は、その後も長く生き延びることになる。規制の網はかかったが、目はまだ粗かったのである。
1906年法の後日談ーーjudicial setbackと組織の成長
法の弱点は、施行後まもなく裁判の場で露呈した。がんに効くとうたう偽薬を摘発した事件で、連邦最高裁は1911年「1906年法が禁じる虚偽表示は成分についてのものであり、効能の主張には及ばない」と判断したのである。議会は翌1912年に効能の虚偽表示を禁じる修正を行ったが、今度は「販売者が騙す意図を持っていたこと」の立証が要件とされ、執行の壁は高いままだった。
インチキ薬の広告との闘いは、その後も数十年続くことになる。それでも1906年法は、農務省化学局に「連邦法の執行機関」という新しい顔を与えた。牛乳の防腐剤と缶詰の衛生を分析していた化学者の集団は、この法律を執行するうちに規制のプロフェッショナル集団へと成長し、以前の回で述べたとおり、やがてFDAと名を変えることになる。
おわりにーー「表示の規制」から「安全性の規制」へ
1906年法は、連邦政府が食品・医薬品に本格的に関与する扉を開いた歴史的立法であった。しかし、医薬品を市販する前に安全性を確かめさせる権限を当局が手にするには、さらに30年余りの歳月と、100人以上の犠牲者を出す悲劇を待たなければならなかった。次回は、FDC法誕生の引き金となった1937年のサルファニルアミド事件を取り上げる。
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